2012年4月13日金曜日

神経症の治し方



神経症とは何か

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

これが神経症についての私の定義である。

人生には、次々に、さまざまな不安や恐怖がおそいかかる。

いや、「生きる」ということ、そのものが不安である。

「死」というものへの恐怖もある。

人として生きている以上、不安や恐怖から逃れられることは決してない。

だが、不安や恐怖をそのままにしておくのことは苦痛である。

だから、不安や恐怖から逃れようと、右往左往する。

不安や恐怖から逃れるための行為が、生活に支障を来たすような状態となった場合、
それを「神経症」と呼ぶのだ。

人間は、不安や恐怖が生じるたびに、
そ れを逃れるための行動を起こすものだ。
そして、しばしば、その行動は生活に支障を来たすほどになり、
しかも、習慣化してしまう。

このように考えると、神経症とは、何も特別なものではない。
誰もが、一つや二つ、何らかの神経症を抱えているものだ。

 

神経症という言葉の用いられ方

Web上のフリー百科事典『ウィキペディア』にて、「神経症」を検索してみた。

  神経症(しんけいしょう)とは、精神医学用語で、主に統合失調症や躁う
  つ病などよりも軽症であり、病因が器質的なものによらない精神疾患のこ
  とをさす。軽度のパニック障害や強迫性障害などがこれにあたるであろう。
  これらはかつて、不安神経症、強迫神経症と呼ばれていた。

  歴史� ��にはフロイトが、精神分析を創始するにあたって当初は神経症の患
  者を対象としていたことが有名である。フロイト以降も神経症の精神力動
  的な研究が主流であった。

  しかし最近はDSM-IV-TRやICD10などの記述的な診断基準(病気の原因によ
  ってではなく症状によって診断するもの)が主流となっているため、臨床
  的診断として神経症が使用されることは少なくなったが、神経症の概念自
  体は今でも非常に重要である。

  神経症の病名が使用されることが少なくなった理由として、記述的な診断
  基準の台頭に加えて、精神疾患の生物学的メカニズムが明らかにされたこ
  とや薬物療法の進歩もあげられる。例えば、かつて強迫神経症と言われて
  いたものは超自我や 肛門期固着などで解釈され心理療法が治療の主体であ
  ったが、SSRIなどの薬物が有効であることや脳のセロトニン系の異常が明
  らかになり、強迫性障害と名を変えた。

  なお神経症にあたるドイツ語はNeurose(ノイローゼと読む)であり、日本
  でもノイローゼを神経症の意味で使うこともあるが、一般の人が「ノイロ
  ーゼ」と言う場合はもっと広い意味に使われるので注意が必要である
  (ノイローゼ参照)。

臨床心理士によるサイト『lulu-web』(
神経症について、次のように説明されている。

  どんな人でも、一時的に不安になったり、同じことがどうしても気になっ
  てしまったり、ちょっとしたことが恐くて仕方なくなったりすることがあ
  ると思います。

� �� 神経症というのは、こうした「こころの揺れ」が固定化してしまうことで、
  その  苦痛が続き、日常生活に支障をきたしている状態のことを言います。

  精神病にかかった人は、自分の論理を通すためにある意味で社会的常識を
  捨てます。しかし、神経症にかかった人は、その社会的常識にがんじがら
  めになって、それをしないで済む言い訳を探しているような印象を受けます。

  しかし、時代の流れからか、古典的な神経症症状を示す人は少なくなって
  おり、神経症よりも人格障害と診断されるケースが増えているようです。

  また、現在よく使われている診断基準であるDSM-4でも神経症という
  分類は用いられなくなっています。神経症概念とDSM-4の分類� ��対応
  については[神経症とDSM]の項にまとめました。

同サイトによる、神経症とDSM-4の対応表によると、

  神経症      DSM-4

  不安神経症    全般性不安障害、パニック障害

  恐怖症      広場恐怖、社会恐怖、特定の恐怖症

  強迫神経症    強迫性障害

  心気症      心気症

  ヒステリー    転換性障害、解離性健忘、解離性遁走

  離人神経症    離人性障害、解離性同一性障害

  抑うつ神経症   大うつ病性障害、気分変調性障害

以上の、ウィキペディアとlulu-webによる説明をまとめてみる。

1.神経症とは、統合失調症や躁うつ病などよりも軽症であり、
  病因が器質的なものによらない� ��神疾患。

2.神経症とは、不安や恐怖などの「こころの揺れ」が固定化してしまうこと。

3.日本で用いられている「ノイローゼ」という言葉よりは、狭い概念である。

4.現在では、神経症の病名が使用されることが少なくなった。

 

神経症とは依存による回避行動である

人は、恐怖や不安に直面した場合、回避行動をとろうとする。
これは、ごくごく、普通のことである。

だが、その恐怖や不安があまりにも大きな場合、
回避行動もまた、極端なものになって行く。

そして、一度経験した、恐怖や不安に関連することがらを見聞するだけで、
回避行動をとるようになる。

いわゆる、これが神経症であると考えて良い。

例えば、子供の頃、道で転んで、
その時、偶� �、犬のフンの上に手をついてしまった。

それ以来、手の汚れに対する不安感が増し、
何度もしつように手を洗うようになった。

手の汚れに対する不安を解消しようとする行為が、しつような洗浄である。

これが、強迫神経症(DSM-4分類では「強迫性障害」)と言われるものだ。

また、子供の頃、いじめられたことが原因で、人間が恐ろしくなり、
学校を卒業しても、家にひきこもりになる者もいる。

これは、人間へ恐怖に対して、「ひきこもり」という回避行動をとっている。

こても神経症の一種であり、「対人恐怖症」などと言われるものである。

「回避行動」とは、必ず何かに「依存」して行われる。

手の汚れへの不安は、「洗浄」という行為に依存することで回避する。

� �間への恐怖は、「ひきこもり」という行為に依存することで回避する。

つまり、神経症は、必ず何らか依存対象を必要としている。
それは、「行為」の場合もあれば、人や物などの場合もある。

子供の頃から地味だと言われ続けた女性が、
成人して、ブランドで身を固めるようになることがある。

これは、他人によって見下されることに対する恐怖を、
「ブランド」という物に依存することで、回避しようとする。

一般的に「依存症」と言われる症状であるが、
神経症とは、必ず何らかの依存症を伴っている。

では、顔面赤面症や、吃音など、受動的症状の表れる神経症の場合はどうか?

受動的症状は、自然に現れるものであり、
「依存」という言葉は当たらないように思える。

だが� ��「依存」とは、意識的に依存するということではない。
潜在意識が症状に「依存」することである。
依存しているという自覚があるか否かは関係ない。

顔面赤面症や、吃音とは、「この緊張に耐えられない」というサインである。
恐怖や不安から回避するために、顔面赤面症や、吃音というサインが出る。
顔面赤面症とはまさに、顔に表れた赤信号だ。

潜在意識が、このサインに依存することで、
不安や恐怖から回避させようとしているわけである。

 

ノイローゼという言葉について

「ノイローゼ」(Neurose)は、ドイツ語で「神経症」を表す。

だが、日本では単に「悩み」という意味を持つようになった。

神経症は単なる悩みとは異なり、依存行動を伴う。

すなわち、「ノ� ��ローゼ」という外来語は非常に問題がある言葉である。

日本では、「ノイローゼ」という言葉は用いず、「悩み」と言ったほうが良い。

 

うつ病は神経症の一種

神経症とうつ病を、別個の存在であると理解している人が多いだろう。
だが、私はうつ病は神経症の一種であると捉えている。

私自身の体験でお話した、退却神経症であるが、
これは、学校や会社などのストレス源から、直接的な逃亡を図る症状である。

通勤時、会社とは逆方面の電車に乗って、海に行ってしまった、
などというのは、ありゆれた退却神経症の出かただが、
小学生の子供が「学校に行きたくない」と、
布団にもぐったまま、出て来なくなるのも、退却神経症である。

「おなかが痛い」と言って、学校を 休んだ子供が、
昼頃になると、ケロッとしてテレビを観ている。

ストレスに弱く、ストレスからの逃亡をはかるのが退却神経症だ。

退却神経症の場合はまだ、ストレス源から逃亡しさえすれば、元気が出る。

しかし、症状が深刻化すると、ストレス源から逃亡しても、
不安から逃れることができなくなる。

会社や学校を休んでも、常に情緒的な不安が起こっている。

これが「うつ病」というものだ。

うつ病は、退却神経症の延長線上にあるものだ。

神経症が進行して、うつ病となるのである。

尚、DSM-4の括りでは、うつ病は「大うつ病性障害」とされている。

 

うつ病とセロトニン不足

一般に、うつ病は、
神経伝達物質であるセロトニンが不足することによ って生じると理解されているが、
そもそも、悩むことによって、セロトニンが減るのである。

日々の会社勤務における悩みにより、
ある日、会社に行くのが嫌になって、家で寝込んでしまう。

それ以降、無断欠勤を繰り返し、会社や家族に言われて病院に行き、
「うつ病」と診断される。

そこで、長期に渡り、会社を休職することになるが、

「会社で噂になっているのではないか?」

「このまま休み続けるとクビになるのではないか?」

「復職したとしても、まともな扱いを受けられないのではないか?」

など、さまざまな不安が頭をよぎり、セロトニンが不足し続ける。

セロトニンが不足すると、感情が抑制できなくなるが、それだけではない。
セロトニンは、食欲、睡眠・覚醒リ ズム、生殖、運動、体温、呼吸、消化、
心臓などにも影響し、通常の日常生活すら、営めなくなる。

これが「うつ病」だ。

尚、セロトニン不足は、すべての神経症者における、共通の特徴であるが、
特に、うつ病の場合は、深刻なセロトニン不足なのだ。

 

神経症の定義

研究者により、さまざまな反論はあるだろうが、
私は神経症について、

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

と定義したい。

たとえば、さまざまな感染症が蔓延している。

感染を防ぐためには、うがい、手洗いを徹底するしかない。

ゆえに、職場にいる場合、一日、何度も、うがい、手洗いをくり返すことは、
感染予防上、むしろ� �好ましいことである。

たとえば、一時間に一度、うがい、手洗いに行くとしよう。

通常のオフォスのような場所であるならば、
一時間に一度、数分、うがい、手洗いに行くことくらい、問題はないだろう。

ところが、20分、30分に一度となると、支障が出てくる可能性がある。

また、一度のうがい、手洗いに費やす時間も、
2~3分ならば問題無いだろうが、10分とか、20分とか、
場合によっては1時間もそれをやっていれば、明らかに生活に影響が出てくる。

さらには、手を洗い過ぎて、荒れてしまうなど、健康上にも被害が及ぶ

不安や恐怖を、人、モノ、行為に依存することによって、
回避しようとすることは、ごく当たり前のことである。

それ自体は「神経症」とは言えな い。

ところが、通常の日常生活が困難になるほど、
その依存行動が過剰になることが、「神経症」なのである。

神経症とは、決して、降って湧いたような、根拠のない症状ではない。

不安や恐怖という、必ず、何らかの原因がある。

ところが、その不安や恐怖から逃れるために、
日常生活すら犠牲になるような、過剰な回避行動をとることが神経症である。

過食症というものがある。
ストレスから回避するために、しつようにモノを食うわけだ。
これにより、肥満になれば、健康がおびやかされ、日常生活に支障が生じる。
ゆえに、過食症もまた、神経症の一種である。

このように、神経症というのは、現れて来る症状がさまざまである。
その症状については、DSM-4分類であげら� ��ている名称で呼ぶのが、
現在は一般的なのだろう。

だが、DSM-4分類であげられている、さまざま症状を総合的に言うならば、
やはり、「神経症」という言葉が的確であろう。

私は、


リラックスしているために何をすべきかのもの

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

という定義の上で、「神経症」という言葉を用い、
具体的に現れてくるさまざまな症状については、
DSM-4分類での名称を基本的に用いている。

 

神経症は脳の異常が原因?

神経症は脳の異常が原因であるという説がある。

神経症者の脳をPETスキャンしてみると、
前頭下部にある眼窩皮質のエネルギー消費量が増大しているというデータがある。

このようなデータによって、
神経症は脳の異常によって引き起こされるという説がある。

脳内の血流量が増すということは、
不安対象に対し、強く反応しているということである。

「こりゃ、マズイ!」

とパニックになっている状態だ。

「何とかこの不安から逃げ出さねばならない」

と、脳が目覚しく活動しているということだ。

つまり、脳の血流量が増えるのは、結果でしかない。

恐怖や不安に対する適切な対処の仕方がわかれば、
パニックは起こらなくなる。

対処の仕方がわからない、あるいは下手だからパニックになるのであり、
対処の仕方がわかれば、パニックにはならない。

大脳の血流量が異常に増大するということもなくなる。

脳の血流量うんぬんというのは、結果に過ぎない。

ゆえに、神経症は脳の異常ではない。

 

思考回路の異常は、脳そのものの異常ではない

神経� �は、思考回路が異常を起こすことである。
思考回路というのは、思考パターンのこと。
強迫的な思考を繰り返すということである。

毎朝、仏壇に祈らなくては、不安で出勤できないという人がいる。

「今日は祈れなかったから、不幸なことが起こるに違いない」

と考えてしまうことで、かえって、仕事に積極性が無くなり、
不利益を受ける。

これは、そうしなければならないという強迫的な思考パターンが、
脳内に形成されてしまったことによる。

これは、脳そのものの異常ではなく、思考の道筋の問題なのである。

「○○しなければならない」

という思考回路を、日常生活に支障の起こらない程度に、
切り替える必要がある。

仏壇に祈る時間のある日は、祈ることは問題ない。
だが、それが時間のできない日もあるだろう。

できなかったら、できないで仕方ないと諦め、
仕事に専念することが大事である。

強迫的思考パターンというのは、
山手線のように、ぐるぐる回っている線路のようなものである。

そこから抜け出すには、別の線路を敷く必要がある。

つまり、新しい思考を形成する必要があるのだ。

非病療法は、そのためのテクニックである。

 

薬物療法は有効か?

神経症とは、

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

であるから、
この習性を訓練によって克服することでしか、治療できない。

向精神薬の投与により、不安や恐怖を一時的に治めることができるかも� ��れない。
だが、それは結局、薬物依存に過ぎない。

ともすれば、向精神薬への依存度が過剰になり、
「薬物依存症」という、新しい神経症の原因になりかねない。

向精神薬を服用することを否定するつもりはないが、
向精神薬では、神経症の症状を緩和することができても、神経症の治癒はできない。

向精神薬はあくまでも、治療の補助に過ぎない。

 

神経症は異常か

アスベストがじん肺の原因となっているということが報道されて以来、
ほとんどの人は、天井にアスベストのある場所には、
出入りしたくないと思うようになったはずだ。

ところが、アスベストがじん肺の原因であると知られていなかった時代では、
アスベストが使われている場所に入るのを嫌がる人がいた� ��すれば、
周囲はみな、「この人は異常ではないか」と思われただろう。

神経症者が、念入りに手を洗ったり、何らかの「変わった」行為を行うのは、
あるいは「正常」なのかも知れない。

しかるべく根拠があって、手を洗っているのであり、
それがたまたま、周囲から見れば、「異常」に見えるだけなのかも知れない。

だから、必ずしも「神経症は異常」とは言えない。

異常とか、正常ということは、見る人の主観に基づくものであり、
ハッキリとは言えない。

ただ、生活に支障を及ぼせば「神経症」。
生活に支障を及ぼさなければ「神経症ではない」ということだけである。

 

神経症の分類

神経症は、以下の三通りに分けることが可能である。

 ┌ 妄想的要因によ� ��て起こるもの。
A┤
 └ 現実的要因によって起こるもの。

 ┌ 依存行動が有害なもの。
B┤
 └ 依存行動が有害でないもの。

 ┌ 症状が能動的なもの。
C┤
 └ 症状が受動的なもの。

これらが組み合わさって、千差万別の神経症が生じる。

ゆえに、神経症の対応策は一つではない。

 

神経症は病気に非ず

神経症が病気まらば、世の中全員が病気になってしまう。

なぜならば、

「不安や恐怖を、日常生活すら犠牲になるほどの、
 人、モノ、行為への依存行動をくり返すこと。」

という神経症的行為を、まったく行わぬという人間は、
この世に居ないからである。

人間は誰しも欠点があると言われる。

たばこを吸わなくても、酒にお� ��れている人。

酒を飲まなくても、過食をする人。

過食をしなくても、買い物に依存する人。

買い物依存ではないが、インターネット依存の人。

インターネットはやらないが、恋愛中毒の人。

恋愛よりも、ギャンブルにはまっている人。

ギャンブルよりも、株だという人。

株はやらないが、働いていなければ気が済まないという人。

これらはすべて、何らかの不安や恐怖を、
日常生活すら犠牲にするほど、人、モノ、行為に依存しているのである。

神経症者でない人など、この世にはいない。
必ず、何らかの神経症を、誰しもが保有している。
でも、恥だと思って、あまり人に語らないだけである。

一見、何の欠点もない美女も、思わぬ場所にイボがあったりする。

いわば 、神経症とは、イボや湿疹のようなものだ。

神経症は病気ではないとしても、
日常生活の支障になる以上、その都度対処する方法がある。
それが非病療法だ。

すなわち、非病療法とは、神経症を病気であると深刻に受け止めるのではなく、
人間としてごく当然の反応として、楽に対応することである。

 

非病療法とは何か

「神経症は必ずしも異常ではない」

というところから出発するのが、非病療法である。

その人なりに、何らかの根拠があって、神経症的行動をとっている。

それがたまたま、日常生活に支障を来たしているから、
「神経症」として問題視されているに過ぎない。

異常かどうかが定まっていないものを、「病気」であるとすることはできない。
ゆえ� ��、「非病」(病に非ず)なのである。

だが、病気ではないにせよ、
生活に支障を及ぼすような「症状」があるわけだから、
これは治療せねばならない。
だから、「非病療法」としたわけである。

これは、神経症者であった私の経験をもとに、生み出したオリジナルの療法である。

具体的に、非病療法でどのように神経症を治癒するか?

非病療法には、症状によって4通りの対応方法がある。

【パターン1】妄想が原因の神経症の場合

→妄想が消滅するイメージを持つ。

【パターン2】現実的なことが原因の神経症の場合

→日常生活に支障を来たさない程度に、その行為を抑制する。

【パターン3】現実的なことが原因であるが、依存行動に危険が伴う場合

→何らかの代償行動� ��見つける。

【パターン4】受動的な症状である場合

→セルフ精神分析を行う。

【パターン1】妄想が原因の神経症の場合

たとえば、ある人に触れた瞬間、
その人の不幸が自分に移るという強迫観念にとらわれた者がいるとしよう。

この者は、その観念から逃れるために、これまでさまざまなことを試したが、
結局、背中を十回、壁にぶつけると、
不幸が払い落とせると感じるようになった。

それ以来、人に触れるとすぐに、どこかの壁に背中をぶつけるのである。

この人はおそらく、過去、他人と触れた後に、
不幸な目に遭うということを、何度も経験したのだろう。
それが原因となって、このような妄想を抱くようになったのだ。

まず、このケースの場合、人に触れたとして� �
その人の不幸が自分に移るという根拠があるのかどうか、
自問自答する必要がある。

おそらく、当人も妄想であることは理解しているはずだ。

何度も手を洗うという場合は、単なる妄想とは異なる。
だが、「不幸が自分に移る」という考え方は、妄想である。

妄想であると自分で理解できたならば、
次に、その妄想をどのように克服するかという問題だ。

他人と接触した瞬間、不幸が自分に移ったという妄想が生じたならば、
その妄想自体が、雪が春先の大地に融けるように、
消えて行くイメージを持つと良い。

単に妄想を否定するよりも、このようにイメージしたほうが、
妄想を克服しやすいのだ。

妄想が原因の神経症というものも、かなりたくさんある。

この場合のすべて に、上記の方法は有効である。
妄想が浮かぶたびに、雪が大地に融けるように、消えて行くイメージを持つ。

他人と接触するたびに、
その人の不幸が自分に移るという考えを抱いてしまう者がいるとする。

この考え方が、妄想か、根拠があるものかということは、
何よりも、当人が判断する必要がある。

他人が「それは妄想だ」と言ったとしても、
それは「考え方の強要」となってしまい、当人は納得しない。

だが、他人と接触するたびに、
その人の不幸が自分に移るなどという考えを、
根拠のあるものと考える者は、おそらく、神経症ではなく、
統合失調症などの、他の病気である。

自分が「正しい」と思っている想念であっても、
極めて世間的に特殊なものであると気づいたら、< br/>とりあえず、精神科医の診断を受けてみることが適切である。

統合失調症者は、妄想であるという自覚がない。
神経症者は、妄想であるという自覚があることが特徴だ。

さて、自分の思いが妄想であると自覚している場合、どうすれば良いか?

妄想と自覚しているならば、
その強迫的行為は今後、行う必要性はまったく無い。

この場合、次のような方法論を用いると良い。

他人と接触した瞬間、不幸が自分に移ったという妄想が生じたならば、
その妄想自体が、雪が大地に融けるように、消えて行くイメージを持つ。

これは、妄想が原因の、あらゆる神経症に適用できる方法だ。

最初は上手く行かないかも知れないが、
これも訓練次第で、成功するようになる。

あまりにも妄想が� �しい場合は、
パターン4で説明するセルフ精神分析を併用する。

【パターン2】現実的なことが原因の神経症の場合

たとえば、何度も手を洗うという行為は、現実的なことが原因である。
すなわちそれは、細菌である。
ゆえに、手を洗うという行為自体は、衛生上、正しいものである。

だが、手洗いの度が超せば、生活に支障が起こる。

30分も手を洗っていれば、それは勤務に支障を来たす。

ゆえに、勤務に支障が来たさない程度の時間で切り上げればいい。

手を洗うという行為が異常なのではない。

他人の手の触れたドアのノブや、
他人の手の触れた電話の受話器を自分が触った場合、
当然、相手の手に付着していた雑菌は、
そのモノを通じて、自分の手に移っている可能性� �高い。

だから、「洗いたい」と思うのは、当然である。
それは決して、病気ではない。

問題なのは、どのタイミングで手を洗いに行くか?
そして、どれほどの時間をかけて、手を洗うか?である。

これは、「勤務に支障を来たさない程度」ということが基準である。

手を洗う時間は、せいぜい、2~3分が限度ではないかどうか?

もちろん、2~3分では手がキレイになった気がしないだろう。

おそらく、その考えは当たってて、顕微鏡で見れば、
2~3分では、雑菌は完全に消えていないはずである。

だが、雑菌が消えようが消えまいが、
勤務に支障を来たさないということが重要なのだ。

それ以上、手を洗い続ければ、勤務に支障を来たすとするならば、
そこで「妥協」しな けばならない。

この「妥協」を学ぶことが、非病療法である。

神経症は完全主義者であり、妥協できない。
妥協できないから、徹底して、その行為を行ってしまう。

その時、生活のことなど、すっかり、忘れ去ってしまう。
ここが問題なのだ。

神経症者は猪突猛進。
恐怖、不安から回避することだけを考える。
その他のことが、一切、目に入らなくなる。


ハートビート/とは何か

優先順位から考えるならば、あくまでも生活のはずである。
生活が倒れれば、人生そのものがストップしてしまう。

だから、手の汚れよりも、何よりも、
「生活を守る」ということを第一に考えねばならぬはずである。

だから神経者は、生活と妥協して生きなければならない。

「非病療法」の実践には、何も特別な理論はない。

ただ、「これ以上、この神経症的行動を続けたら、生活に支障を来たすな」

と思ったら、妥協することである。

そして、どんなに不快になっても、生活に専念することだ。
(生活とは、学校生活や職場生活を含む)

もちろん、まだ手が汚いことは、仕事中も気になって仕方ないだろう。
だが、 いずれ、そういうことにも「慣れる」ようになる。

人間には、環境に「慣れる」という、すばらしい力がある。

【パターン3】現実的なことが原因であるが、依存行動に危険が伴う場合

人は、何らかの不安や恐怖を抱えて生きている。

その不安や恐怖から逃れるために、人やモノ、行動に依存する。

この、依存する対象によっては、人生を破滅させてしまう。

たとえば、シンナー中毒がある。

さまざまな不安を解消させるために、シンナーを吸う。
シンナーは、嫌な気分をすべて忘れさせてくれるため、現実的な実効性がある。

だが、シンナーは、身体にとって、大変に危険な物資である。

シンナーは、またたく間に骨を溶かし、
重症の中毒者は、ベッドの上で、悲鳴をあげて死ぬこと になる。

この場合、シンナーを取り上げ、「自立しないさい!」と子供に要求するか?

不安や恐怖に耐え、何ものにも依存しないことが自立だとすれば、
そんなことは、大人でさえ、無理なことではないか?

人は、日々、襲い掛かる不安や恐怖に耐え抜くために、
何かに依存して生きるのが自然なのではないだろうか?

たまたま、その依存対象が、シンナーであることが問題なのだ。

ならば、「自立せよ!」と、シンナーを取り上げる行為は愚であろう。

不安や恐怖を抱えている子供に対し、
シンナーに代わる、安全な依存対象を提供することが必要だ。

赤ん坊を卒乳させるため、おしゃぶりを与えるように、
シンナーを取り上げる代わりに、何かを与えねばならない。
それが大人の� �任だろう。

シンナー中毒の少年に必要なのは、
不安な人生をいかに生きるかという哲学である。

シンナーではなく、そうした哲学に依存させるべきなのである。

だが、残念ながら、世の大人たちは、そうした哲学を示すことができない。

同じように、自分が何か、あまり好ましくない事柄に依存しているとする。
その場合、依存対象を切り替える必要がある。

たとえば、主婦がパチンコに熱中して、借金まみれになってしまった。
この場合、パチンコに費やす時間や、投資額を減らせば良いという問題ではない。
「パチンコ」そのものが、この主婦にとっては害なのである。

この場合、パチンコを止めて、その代わり、
週末に夫と二人で、競馬に行くなどすれば、
どんどんお金が機械に 吸い込まれて行くパチンコよりは、
生活に支障を与える危険性は少なくなる。

日本人のかなりのパーセンテージをしめる依存症に、タバコがある。

タバコ中毒の場合は、「不安」というものを、
タバコによって紛らわしているということが言える。

タバコ中毒は、神経症の一種である。

タバコには害が伴う。
喫煙は危険な行為だ。

タバコの本数を減らしたとしても、確実に肺の機能は衰えて行く。

では、タバコを止めるにはどうすれば良いか?

「よし、止めるぞ」と言って、その日からパッタリ止められるならば結構だ。

だが、多くの人は、そのようには行かない。

だから、禁煙用のパイプを用いるなどの、代償行動が必要となる。

依存行動に危険が伴う場合は、その行動その ものをストップせねばならない。
そのためには、代償行動を用意したほうが、スムーズに行く。

【パターン4】受動的な症状である場合

吃音や、顔面赤面症という神経症の症状がある。

これは、手を洗うなどの行為と異なり、受動的な症状の表れかたである。

この場合、精神分析が有効になる。

重度の神経症者の場合、何らかのトラウマを抱えていることが多い。
そのトラウマを、精神分析で探るということは、とても大切なことだ。

森田学派の中には、精神分析を否定する者もいるが、
森田療法は、今、目の前に表れている神経症に対応するための方法論であり、
その人の心の本当の闇を解決することができない。

その人がトラウマを抱えている限り、
一つの神経症が解決したら、� �た別の神経症が表れるのだ。

そうならないためには、自分のトラウマを明らかにし、
それに向き合う作業は絶対に必要だ。

だが、それを、必ずしも専門家に依頼する必要はない。
自分の心理は自分で分析できる。

ゆったりとくつろいで、自分の神経症の原因を、
過去にさかのぼって考えてみる。
方法論としては、ただそれだけのことである。

自分自身のことだから、ゆっくり考えれば、答えは必ず出る。

トラウマがハッキリすれば、自ずと、今後の生き方もわかる。
神経症にも、あまり苦しむことが無くなって来るだろう。

森田療法の治療法は、吃音や赤面を「あるがまま」にし、
本来、やらねばならぬことに専念せよと言うものである。

だが、対人恐怖を生み出す根本的なトラ� �マが解消されない限り、
吃音や赤面はいつでも顔をもたげようとするだろう。

精神分析でトラウマをハッキリさせることにより、
自分が客観化できて、他人の誤りを見抜くように、
自分の思考の誤りに気づくことができる。

セルフ精神分析により、対人恐怖が、自己保身であると気づいた瞬間、
吃音や赤面という対人恐怖的症状は、
仏に見抜かれた魔の如く、退散してしまうのである。

受動的な症状である場合に限らず、精神分析が有効な場合がある。

何度も手を洗いに行くなどという、能動的な症状の場合は、
意志の力で行動を抑制できる。

だが、顔面赤面症などの受動的症状は、意志の力で止めることが不可能だ。

だから、受動的症状の場合、精神分析しか打つ手が無いということ なのだ。

能動的症状であっても、精神分析を併用することで、早く治ることがある。

 

「神経症が治る」ということ

アル中が治ったら、過食症になった。
過食症が治ったら、買い物依存症になったと、
神経症とは、一つのものが治ったと思っても、
別のものが次から次へと、表れて来る。

まるで「デキモノ」のようなものだ。

それが完全に出なくなるというほうが不自然である。

人は何とか、デキモノと共存して生きているように、
神経症とも共存して生きているのだ。

ところが、あまりにも大きなデキモノは、切除しなければならない。
同じように、重度の神経症は、特別に手を施さねばならない。

「神経症は治るか?」と言われれば、治る。

だが、不安や恐怖� �無くならない以上、
一つの神経症が治っても、また別の神経症が表れる。

だから、神経症に完治はない。

おそらく、誰もが何らかの神経症を抱えて生きている。

だが、あまりにも生活に重大な支障を来たさないように、
上手に神経症と付き合っているのだ。

現在、自分の神経症に悩んでいる人は、そのようになることを目指すしかない。

非病療法における「神経症が治る」ということは、
その行為が、日常生活の妨げにならなくなる、ということである。

毎月、生活費を投じて競馬をやっていた者が、
小遣いの範囲で競馬をやれるようになれば、
とりあえず、「競馬依存」という神経症は「治った」と言える。

ところが、火傷の跡のように、キレイに治るわけではない。
必ず、「� �り戻し現象」と言って、
元の状態のようなことをやってしまうこともある。

一年、たばこを我慢していた人が、
一年後に、一本だけ、手にしてしまうようなこともある。

だが、これを深刻に考えてはならない。
深刻に考え、自分に失望してしまうと、また、完全に元に戻る。

多少の「揺り戻し現象」は、想定内のものとして、自分に許す。
「揺り戻し現象」を含んで、「治った」というのである。

概ね、神経症は徐々に治って行くものであるから、
「○月○日をもって治った」というものではない。

「だんだん治って来て、いつの間にか、あまり問題にならなくなった。」

というものである。

自分で「だいたい治ったな」と思った日が、治癒だと思って良い。
あとは、多少の揺り� �しには、動じないことである。

また、せっかく喫煙依存が治ったのに、次は過食症になるということもある。

そういうこともあり、神経症には完治は無いのだ。

 

不安度の高い人ほど、神経症になりやすい

一つの神経症が治ったとしても、別の神経症が起こる可能性がある。

たとえば、競馬依存が治ったと思ったら、今度はゲーム依存になって、
朝から晩まで、寝ることも食べることも忘れ、
ゲームに熱中してしまうということだ。

人は、何かに依存していなければ、生きていられないのが当然であるから、
仕方が無いことではある。

だが、同じ依存するならば、もっと価値的なことに依存したほうが良い。

朝から晩までゲームに依存するくらいならば、
朝から晩まで、仕� ��をしたほうが価値的である。

依存することが問題なのではなく、依存する対象が問題なのだ。

ただし、何かに依存しやすい人と、依存しにくい人がいることは間違いない。

たとえば、歩く時も、電話に乗っている時も、
家でテレビを観ている時も、寝る直前まで、携帯電話ばかりいじっている人がいる。

こういう人は、とにかく、不安で不安でならないのだ。

不安だから、誰かとつながっていたいのだ。

このように不安度の高い人は、依存行為に走りやすい。

一方、不安度の低い人もいる。

電車に乗っていると、何もせずに、ただ、じっと座っている人がいる。

そればかり見て判断することはできないが、
携帯をいじるわけでもなく、音楽を聴くわけでもなく、本を読むわけでもなく� ��
ただ、じっと座っていられるという人は、概ね不安度の低い人が多い。

不安度の高い人は、とにかく、じっとしていられない。

しゃべっているか、何かしているか、どっちかしかない。

禅僧のように、じっと大人しく座っていることなど、耐えられない。

落ち着きの無い子供が増え、「学級崩壊」と言う現象があちこちで見られるという。
これは、すなわち、子供の不安度が高くなっているということである。

大人が携帯電話ばかりやっているのと、
学級崩壊が起きていることは、底辺でつながっている。

不安度の高い人ほど、神経症的依存行動に走る可能性も高くなるわけであるから、
神経症の抜本的な対応策、不安度を低くすることである。

この場合、セルフ精神分析が有効になる� �

セルフ精神分析は、神経症の症状が受動的な表れ方をする場合に、
有効な治療方法となるが、
不安度を低くするということで、すべての神経症の根本的対応策ともなる。

 

不安と向き合う

味の濃いものばかり食べていると、味の感覚が麻痺する。
京料理のような、薄味のものは、食べられなくなる。
出てきた食べ物に、すぐに醤油をかけるようになる。

この味覚異常の人を、三日ほど断食させると、味覚が正常に戻る。
生の大根をかじらせると、「甘い」と言うようになる。

人が何かに依存するという行為は、味付けする行為である。
依存すればするほど、濃い味付けとなる。
すると、何かに依存せずにはいられなくなる。

依存行為とは、不安や恐怖に背を向ける行為であ る。
不安や恐怖に背を向けていると、不安や恐怖がますます大きくなる。

ゆえに、依存行為をやめて(抑制して)、不安や恐怖に向き合うことだ。
そうすると、不安や恐怖は意外に怪物ではないということがわかる。

不安や恐怖に背を向けていたら、とてつもない怪物に思えて来た。
ところが、直面すると、そうではないことがわかる。

 

セルフ精神分析

オデキが出やすい人と、そうでない人がいるように、
神経症になりやすい人と、そうでない人がいる。

この違いは、不安度の高低による。

不安度の高い人ほど、神経症になりやすい。

神経症に悩んでいる人は、その症状によらず、セルフ精神分析が有効である。
赤面症などの受動的症状の場合は、精神分析しか救いはない� ��、
妄想が強い場合も、セルフ精神分析が不可欠である。

一体、自分は何に不安を感じているのかを、よく考える。
それがセルフ精神分析である。

「精神分析」と言うと、特別な技術が必要に思えるが、そんなことはない。

もちろん、自分がカウンセラーとして、他人の精神を分析する場合は、
知らねばならぬことがたくさんある。
だが、自分で分析する場合には、知識はいらない。


私が目を覚ますと、なぜ私の体が揺れるん。

ベッドの上に横になり、自分の不安の原因をじっくり考えてみることだ。

どうしても、セルフ精神分析に自信が無い場合は、
専門のカウンセラーにかかるのも良いだろう。
退行催眠などは、忘却していた記憶を呼び出す効果がある。

だが、カウンセラーを訪ねる前に、まず、自分でやってみて欲しい。
自分自身のことだから、ほんとうは、自分が一番、よくわかるはずだ。

下手なカウンセラーが分析すると、間違った診断を下すことがある。

 

自分の本当の声を知る

子供は、親の保護を受けて生きる。

ゆえに、幼い子供は、親に逆らうことができない。

こうした状況における、親の意見は絶対的 なものがある。

自分では違う考え、感じ方を持っていても、
それが親の考えとは違う場合、
自分でその考え、感じ方を封印してしまうこともある。

そうすることで、本来の自分自身を失ってしまう。
「自己喪失」という状態になる。

自分では、しっかり自己を持っているつもりであるが、
実は、それは親に与えられた考え方に過ぎない。

ゆえに、さまざまな不安や葛藤が自分の中にある。

そうやって大人になってしまった者の事を、アダルトチルドレンと言う。

神経症やうつ病の原因に、自己の抑圧がある場合が多い。

自己の抑圧とは、アダルトチルドレンのように、
自分の本当の考え方を隠しているということだ。

自分の本当の考えが、必ずしも正しいとは限らない。
もし� �したら、親の考え方のほうが正しいかも知れない。

だが、自分の本当の考えを封印してしまったことで、
自分の人生を生きていないような不安が生じているのである。

ゆえに、まず、自分の本当の声を聞く。

それが、セルフ精神分析である。

アダルトチルドレンでなくても、
自分の気持ち、欲望を頭から否定して生きていると、いずれ、精神疾患を生じる。

厳しい戒律を持った宗教者のように、
「ねばならぬ」「ねばならぬ」という理想ばかりで頭を満たしていると、
やがて、自己を喪失した感に支配されることになる。

「欲望で満たしたい」というのが、自分の本音であるならば、
それを実行するかしないかは別にして、ます、その欲望を認めること。
それが、本当の自分なんだと受 け止めること。

その次に、その欲望を、どこまで追いかけるかを理性的に考えることだ。

最初に、まず、自分の欲望や感情を、自分で認めてあげること。
そうしなければ、いつの間にか、理念に人生が支配されることになる。

理念は人生の助けであり、人生の支配者ではない。

 

「生きる」という抜本的な不安

気づいたらスタート地点に立っていて、

「これからお前は旅に行かねばならない。さあ、行け!」

と尻を叩かれるのが人生である。

目的地など示されていない。
自分で目的地を探さねばならない。

だが、昔はそれでも地図があった。

地図があれば、何となく目的地を探し、そこへのルートもわかったのである。

ところが現代は、地図が無い。

いや、あ� �ことはあるが、色んな情報が書き込まれすぎて、
真っ黒になり、読み取ることができない。
つまり、白紙も同然なのだ。

それに、昔はお金を持たされた。
「これを持って行けば大丈夫だ」と。

今は、手ぶらで何も与えられない。

そして、目的地もわからないから、とにかく、一歩、一歩、前に出るしかない。

お金も無いから、とても不安である。

これが現代社会なのだ。

現代は「社会不安が大きい」と言われるが、
このような状態だから、社会不安が大きくて当然なのである。

神経症の原因は、不安や恐怖であるが、
最大の不安と恐怖は、

「私はこれから生きていて、幸せになれるのだろうか?」

というものである。

大人も同じだが、子供たちの不安度が年々、大きく� ��っている。

学級崩壊やいじめの増大は、子供たちの不安度と比例している。

子供たちは、真っ黒な地図を持たされ、お金も与えられていない。

ゆえに、不安で不安でならないのである。

この不安を払拭するには、安心して生きて行ける社会を構築せねばならない。

だが、企業の収益に依存するだけの資本主義社会は、もはや限界に達している。
しかし、人々は、資本主義から別のものに転換する術を知らない。

企業頼みしか戦略のない自民党や民主党を、
あいかわらず支持するしかないのが国民である。

少ないものを分かち合うという発想に立てば、
貧しいながら、すべての人が幸せに生きて行けるものの、
一度、ぜいたくを味わった日本人は、そのような社会制度を望まない。

社� ��は行き詰まりである。
先は無い。

つまり、日々、膨れ上がる社会不安を、我々はそのまま受け止めねばならない。
不安なままに、生きて行く以外にはない。

まるで目隠ししながら歩いているようなものであるが、
目隠ししながらも、歩き続けるしかない。

盲者は、「見えない」という事実を受け入れるしかない。

同様の覚悟を決めて、我々は生きて行くしかない。

「運が悪けりゃ、死ぬだけさ」という言葉がある。

明日など保障された人生などない。

ならば、やるだけやってみるだけだ。

そう覚悟を決めれば、不安も軽減される。

 

神経症の根本原因は「生きること」への不安

「人はなぜ生きるか」

「いかに生きて行けばよいか」

この、根源的な不安� �、すべての神経症の根源的原因である。

この不安はおそらく、完全に消え去ることはない。
なぜならば、この疑問に対するパーフェクトな回答を出せるのは、神だけだから。

しかし、わからないからと言って、思考を停止してしまえば、
不安だけが潜在意識に残る。
それが神経症の要因なのだ。

臭いものにフタをしても、根本的な解決にはならない。

「人はなぜ生きるか」

「いかに生きて行けばよいか」

そらく、神にしか正解が出せないであろう、この難問も、
深い思索によって、あるところまでは見えて来る。

「人はなぜ生きるか」

死のうと思えば、死ねるはずである。

それでも生きているのは、生きたいから、生きていたいからである。

なぜ、生きていたいのか?

生きていることで、良いことがあるから。

美しいものが見れるから、おいしいものが食べられるから。

実に単純なことであるが、そんな単純なことのために、我々は生きている。

我々は死にたくない。
まだ死にたくない。
だから、生きるのだ。

「いかに生きて行けばよいか」

自分が「幸せだ」と感じられるように生きるのである。

具体的に、どうすれば自分は一番、幸せを感じられるか?

それを懸命に考え、実行する。

それが人生だ。

もちろん、上手く行かないこともある。

進路変更も迫られることが多いだろう。

それでも、「幸せ」を求めて生き続ける。

方法論など、定まっていない。

まさに暗中模索である。

暗中模索の中で、迷いながら、ジタバタしなが ら、生きて行くしかない。

これは、私の出した答えである。

もちろん、この答えは絶対的なものではない。

当然、受け入れられない人もいるはずだ。

ならば、自分なりに、答えを見つけて欲しい。

この、答えを見つける作業が、神経症を治す作業とイコールなのである。

逃げれば逃げるほど、「不安」という怪物は大きくなる。

だから、生きることの意味を問う作業から、逃げてはならない。

 

人への依存

神経症には、人に依存する場合もある。

「寄らば大樹のかげ」ということわざがあるが、
自分自身に自信が無い人が、強い人に従属することで、
安心を得ようとすることがある。

おとなしい子供が、気の強い子供に、
いつも金魚のフンのように、くっついて� ��いているという光景も、よくある。

自分一人では、なかなか周囲の人と上手に関係を結べない場合、
自己主張のはげしい者の子分的存在になることで、
自分の利益を守ろうとするわけだ。

だが、その人にタテになってもらうために、その人の言いなりになる必要がある。
自分が嫌なことでも、しぶしぶ、従わねばならないこともある。

夜中呼び出されて、出かけたり、
その人のために、小遣いの持ち出しをさせられることもあるだろう。

つまり、人間関係という不安や恐怖から回避するために、
気の強い子に依存するようになったが、
それによって、日常生活に支障が生じているわけだ。

よって、これも立派な神経症である。

数々の著書を出版している、社会学者加藤諦三は、
主に この、人に依存するケースの神経症について論じている。

自分が言いたいことも我慢して、人に依存するのは、神経症的行動である。
よって、人への依存を絶たねばならない。
主従な人間関係ではなく、対等な人間関係を求めねばならない。

主に、そのような主旨の主張をしている。

これは、まったくその通りである。

【パターン3】現実的なことが原因であるが、依存行動に危険が伴う場合

→何らかの代償行動を見つける。

他人を支配し、コントロールしようとする人間と付き合うことは、
危険性を伴う。
ゆえに、主従的な人間関係を捨て、
代償行動、つまり、対等な人間関係を求める必要がある。

あなたを配下に置こうとする人間と付き合う必要はない。

対等に付き合える人� ��関係を求めて行くことが大切である。

強者に従属することで安心感を得ていた者が、
対等な友人関係を持っても、しばらくの間は不安であるに違いない。

だが、そうした人間関係に慣れて行くと、
やがて、不安も少なくなって行く。

対等な友人は、あなたに何も指示しない。
指示しないから、すべて自分で決断しなければならない。

自分で決断するということに最初は怯えるだろう。
だが、それに慣れて行くことで、不安は無くなって行く。

神経症を治癒するには、「慣れる」ということが必要なのだ。

 

神経症は遺伝するか

千差万別である神経症そのものが遺伝するか否かというよりも、
神経症になりやすい資質が遺伝するか否かと考えるほうが適切だろう。

身体に� ��キモノができやすい人と、そうでない人がいるように、
神経症におちいりやすい人と、そうでない人がいる。

一体、この差は何か?

それは、小さなことを、クヨクヨと心に留めるタイプか、
サラッと水に流せるタイプかの違いによる。

工事の音がうるさくて眠れないという人もいれば、
平気でいびきをかいて寝てしまう人もいる。

いわゆる、図太い人と、繊細な人、という違いだろうか。

犬の種類でも、ちょっとのことに過敏に反応する繊細な犬と、
ちょっとやそっとのことでビクともしない図太い犬がいる。

民族によっても、同様に繊細な民族と、図太い民族とがある。

繊細か図太いかという資質は、このように考えると遺伝することがわかる。

繊細な人に対し、別の言い方で「� ��経質」という言われ方もする。

物事に対し「神経質」な人のほうが、神経症におちいりやすい。

では、神経質はダメなのか?

必ずしも、そうとは言えない。

例えば、うさぎは神経質な動物であるが、神経質であるからこそ、
外的が近づくと、すぐに反応し、逃げ延びることができる。

神経質というのは、自分の身を守るための、重要な要素である。

確かに、あまり神経質過ぎても、幸せでない気がする。

だが、神経質というのは、生まれながら具わった気質であり、治しようがない。

神経質と上手に付き合って行くしかないのだ。

 

非病療法はうつ病に対応できるか

私は、うつ病は、神経症の一種であると捉えている。

ゆえに、非病療法で対応できる。

神経症同� �、うつ病とは病気ではない。
うつ病は健康な反応である。

満員列車に積み込まれて出勤し、
会社に行っては、上司に怒鳴られ、ノルマに追われ、
客に嫌がられながら、安月給のために身を粉にする。

定時になっても、周囲の顔色もあって、なかなか帰れずサービス残業。
その後は、嫌な上司の付き合い酒。

深夜になって、また満員電車に乗って帰宅。

そんな過酷な日々を送りながら、将来の保障は何もない。

これでは、セロトニン不足になって、うつ病の症状が出るのは仕方ない。

多くの都会人は、似たような生活をしているが、
うつ病にならないほうが不思議なのであり、
うつ病になったほうが、健康な反応である。

つまり、うつ病は正しい。
うつ病は病気ではない。

� �ず、自分は間違っていないのだ。
当然なのだ。
自分は成るべくして、うつ病になったのだと知って欲しい。

ヤカンに手を触れれば火傷とするのは健康な反応である。
ヤケドをしないほうが、不健康である。

同じように、健康であるからこそ、うつ病の反応が出ているのだ。

では、いかに、このつらいうつ病から逃れられるか?


うつ病が深刻な場合は、医師にかかって、向精神薬を処方してもらう。
向精神薬により、身体的、精神的な、
さまざまな苦しみを軽減できる可能性がある。

だが、向精神薬ではうつ病の根本的な解決にはならない。

うつ病の根本にあるのは、神経症と同様、不安と恐怖である。

非病療法の対処法に当てはめるならば、うつ病とは

【パターン4】受動的な症状である場合

に相当するだろう。

この場合は、セルフ精神分析を行うという対処方法になる。

セルフ精神分析とは、症状の原因となる、不安や恐怖が、
どこから来ているのかを自分で突き止めることである。

では、うつ病者の不安や恐怖は、一体、どこにあるのか?

何度も手を洗う� ��が、
単に「汚れ」というものへの恐怖を抱いているのとは異なり、
うつ病者の場合は、もっと根深いところに不安や恐怖を抱えている。

うつ病者がセルフ精神分析すると、おそらく、
ほとんどの人が不安や恐怖の本体を、生きることそのものに見出すだろう。

自殺者の大半は、うつ病者であるとも言われている。

つまり、うつ病者は、「生きる」ということ、
そのものへの不安を抱えていると言って良い。

生きることに対する、根本的な不安を抱えているのが、
うつ病者の特徴である。

ただし、生きることへの不安や恐怖というものについては、
特定のトラウマが存在するというわけではない。

あえて言えば、生きることの意味を、
これまで真剣に考えて来なかったこと自体がトラ ウマである。

順調な時は「人が生きる意味」という深遠な問題に対し、目を背けがちである。

だが、苦境に立たされた時、それまで「人が生きる意味」について、
真剣に考えて来なかったことへの、報いを受ける。

本来、うつ病になった今こそ、「人が生きる意味」について、
真剣に思索する必要がある。

だが、うつ病は、セロトニン不足であるから、一切の活力が無くなる。
難しい思索をする気力が無くなるのだ。

うつ病は、何も考えられなくなるというのが特徴でもあるので、
決して、無理に思索しようとしないこと。
思考することによって、かえってストレスを受け、
うつ病をより深刻化させる可能性がある。

また、うつ病者は思考そのものが乱れているから、適切な答えを出し� ��くい。

思索が困難な場合は、まず、気分転換と静養に徹する。

近所に、山や自然公園があれば、出掛けてみて、自然のエネルギーを吸い込む。

症状が重い場合は休職が望ましいが、
職場の状況が、それを許さない場合もあるだろう。

その場合は、せめて、帰宅後や休日など、できるだけリラックスするようにする。

どうしても、不安が強い時は、心療内科を訪ね、向精神薬が処方してもらう。

休養により、幾分かの安定した精神状態を取り戻せたならば、
そろそろ、「人が生きる意味」について考えてみる。

「人はなぜ生きるのか」という問題を、置き去りにして来た結果、
うつ病という現在があるのならば、
そこに目を背けたまま、普通の日常生活に戻って行くことは困難である。

< p>軽度のうつ病ならば、
単に、ストレスによるセロトニン不足である場合がある。
この場合は、静養だけでも、うつ病が解消される。

 

仏教は根源的なトラウマから解放させる

これから述べることに対し、さまざまな反論があるだろう。

だが、私としては、これ以外の方策は見当たらぬために、あえて述べる。

「人はなぜ生きるか?」という問題について、
適切な答えを持っている学問は、私の知る限り、仏教だけである。

「仏教」とひと言で言っても、さまざまな宗派があるが、
あえて、ここでは「仏教」という漠然とした言い方をさせていただく。
なぜならば、一つに宗派に自分の世界を限定してしまえば、
他の宗派から学ぶことが難しくなる。

それぞれの宗派に、それぞ� ��学ぶべき点があるのだから、
「これが私の宗派」と限定することなく、広く学んだほうが良い。
これを「ひとり仏教」と呼ぶ。

具体的な仏教の学び方であるが、

精神的に疲弊していて、文字すら読めない人もいるだろう。

だから、学問から仏教に入るのではなく、体験から入ったほうが良い。

体験というのは、読経称名のことである。

経典はさまざまなものがあるが、
私は観音経(観世音菩薩普門品)の偈文をオススメする。

困窮の中にある人にとって、最も癒しになるお経だからだ。

観世音菩薩普門品偈

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
 
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦

假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没

或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住

或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛

或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心

或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊

或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱   
 
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害

若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方

玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去

雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散   

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦   

具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身   

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅   

真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰

無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間   

悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔   

諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散   

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念   

念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼

このお経を読んだ後に、
「念彼観音力」(ねんぴーかんのんりき)と繰り返し称える。

あまり上手ではないが、私の読経称名を録音したものがあるので、
必要のある人は、左メニューにリンクしてあるフォームより、
私までメールを下されば、音声ファイルを差し上げます。

本尊については、とりあえずこだわる必要はなく、
仏壇の無い人は、壁や窓に向かって読経称名して構わない。

経文の意味について、最初は知る必要はない。
ただひたすら、読めば良い。

雑念は沸いたままにしておくこと。

細かなことは一切気にせず、とにかく、声を出して経を読み、
念彼観音力と称名することに専念すること。

これを毎日継続して� �くと、心が安定して来る。

次に、仏教の思想に関する勉強をする。
思想については、私の書いているメールマガジンを参考にしていただきたい。

わからない部分は、わからないで良い。
無理にわかろうとしないこと大切だ。

すべてわからなくても、断片的に学ぶだけで、
凍った窓が、少しずつ融けるように、向こう側が見えて来る。

「生きる」ということの意味が、何となくわかって来たら、
そこから、自分の生活環境(職場や家庭)を、
どのようにすれば良いかということを考える。

今の苦悩の原因が、職場環境の悪さにあるのならば、
やはり、転職せざるを得ないことになるだろう。
なぜならば、職場のほうが変わる、ということは、なかなか無いからだ。

あまり頑張りす� �ないなど、
職場を変えずに、自分の働き方を変えるという考え方もあるが、
職場のほうが「頑張る」ことを要求する以上、それは許されない。

ならば、思い切って、転職する以外にはない。

熱いヤカンに手を触れて火傷したのであるから、
ヤカンから手を離す以外にはない。

 

宗教団体と神経症

私は、仏教を独修することはオススメするが、
宗教団体に入ることはススメない。

なぜならば、宗教団体というのは、
「○○しなければ地獄に堕ちる」などと、新しい恐怖を植え付けるからである。

神経症の原因は、不安と恐怖であり。

宗教団体は、また新たな恐怖を植え付ける。

これでは、神経症が回復するどころか、かえって悪化してしまう。

宗教そのものに依存す� ��ことは、決して悪いことではない。

だが、宗教団体に依存することは好ましくない。

 

リストカット依存

リストカットの原因は、現実からの逃避である。

現実が不安であるからリストカットを行い、
その痛みの中で、現実を忘れるのである。

つまり、リストカットという行為には実効的な意味があるのだが、
問題なのは、危険が伴うということである。

妄想が原因ではないが、依存行動に危険が伴う場合の対応方法は、
何らかの代償行動を見つけることである。

リストカットする者は、人生に対する、漠然とした不安を抱えている。
この場合、リストカット対する適切な代償行動は、
今後の人生を生き抜く哲学であろう。

逆に言えば、現在、リストカットする者が増え� ��のは、
今の時代、人生を生き抜く哲学が見失われているからである。

幸いなことに、私はその哲学を、仏教の中に得ることができた。

だが、仏教でなければならぬということは決してない。

明らかに人生を照らす指針があるならば、それで良い。

 

神経症的行為をしてしまった時

買い物依存症もまた、神経症の一種である。

この場合、買い物自体が問題なのではなく、
不要な物を買うことが問題なのである。

よって、無病療法に従い、不要なものをできるだけ買わぬようにする。

だが、ついつい、衝動に負け、不要なものを買ってしまったとしよう。

この場合、ここで「ああ、結局、神経症に負けたのだ」と、
ダラダラと次の買い物に走ってはならない。

神経症への 対応に、「パーフェクト」はない。
必ず、神経症との押しくらまんじゅうが、生涯、続くものと考えて欲しい。

買い物依存症者の場合、無病療法をはじめた後も、
必ず、何度も衝動買いに走ることになる。
だが、無病療法を意識していれば、その回数は徐々に減って行く。
そして、限りなく、ゼロに近付く。

神経症に完治はない。
だが、軽減はある。

激しい神経症的衝動が起こることを「フラッシュバック」と言うが、
すべてのフラッシュバックに打ち勝てるものではない。
必ず、負けることもある。
だが、負ける頻度を減らして行けば良いのだ。

 

「ふつう」について

神経症者は、自分が「ふつう」でないことを知っている。

休憩のたびに、手を洗いにトイレに走る� �

職場の受話器の汚れが気になって、再三、ウェットティッシュで拭く。

そのような行為をする人が、自分くらいしかいないとすれば、
あきらかに、その点に関しては、自分は「ふつう」ではない。

この世の中は、「ふつう」であるほうが、幸せになれるに決まっている。
だから、自分が「ふつう」でないことを嘆くことは、当然である。

しかし、人間というのは、自分の「変わっている」部分を、
他人に見せないものである。

あの人は「ふつう」だ。
実にクセがなく、ふるまいがスマートだと思っていた人が、
実は、人の見ていないところで、とんでもない習癖を持っていたりする。

私は、完全に「ふつう」の人など、この世にいないと思っている。

誰かしら、「変わっている」部分� ��持っている。

ただ、それが普段、人前に表れるかどうかの差である。

もちろん、「ふつう」であったほうが良いに決まっている。

だが、「ふつう」でない自分も、
おおらかに認めてあげなければ、人生は苦しくて仕方がない。

神経症を「病気」として気を病むよりも、
誰もが抱えている、人間の当然の反応なのだとしたほうが、
安らかに生きて行けると、私は考えている。

 



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